田原市博物館//銃士:村上範致 ~豊橋編~
豊橋鉄道に揺られて、伊良湖岬と豊橋市のほぼ中間地点のある田原市街地、江戸時代後期の田原は、「東国の蘭学の先覚的な存在」であった地です。この地にある「田原市博物館」は、その中心人物となった「渡辺崋山」に関する資料が数多く展示されている博料館です。彼は、当地出身で長崎に医学修行に出かけ、帰国した鈴木春山より広い世界の新知識や精巧なオランダ軍事学を聞き、これに共鳴し、三宅友信と共に、当時の田原の地の蘭学の原点、先駆者となった方です。又、その生涯や絵などにも精通し、展示されている資料は素晴らしさに目を奪われるばかりです。
しかし、蘭学の弾圧の「蛮社の獄」で蟄居を命ぜられ、藩主にその類が及ばぬよう、自ら命を絶つという悲しい最期となります。
彼の功績は、博物館のみならず、最期に場所が復元され、博物館横には崋山神社として祀られています。
崋山の死後、「田原の蘭学もこれまでか」と思われますが、崋山の生前から鈴木春山、三宅友信などといった優秀な蘭学者が活躍しており、その勢いは途切れる事はなかったようです。その中でも、参州出身として村上範致(のりむね)は、1841年の徳丸ヶ原調練に銃士として参加し、調練後も高島秋帆を頼って長崎を訪れ、更に教えを受け、免許を皆伝となりました。
その後、「銃陣初学抄」等を著しています。又、彼の元には地方より47名の藩士が高島流砲術を学びに、田原の地を訪れたとのことです。
企画が合えば渡辺崋山から村上範致へ宛てた「西洋流砲術の取得する激励の手紙」や高島秋帆先生の「兵学書」、鈴木春山「三兵活法」、高島流砲術伝書などを見ることができるかも。常設展示としても、「管撃ち式のゲベェール銃」やホィスル砲の模型、砲弾、測定器などが渡辺崋山の展示ブースで見ることができます。 ※田原市博物館へGo!
拙者がご案内いたします。
会きっての旅好き野郎「伊賀会長」が全国各地の西洋流砲術・高島秋帆に関係する史跡等をご紹介します。
こちらは全国版です。
こちらは全国版でござる。
高島秋帆の旧宅(長崎市東小島町) ~長崎へ飛ぶ編1~
長崎駅前より長崎電気軌道「正覚寺下」(1系統)に乗り15分、終点の「正覚寺下」で下車をし、軌道を越えた所に高島秋帆の旧宅の方向を示す案内を見つけることができます。それに従い左方向へ約10分。階段を上がった先にまず見えてくるのが、「史跡 高島秋帆宅跡」の石の案内板と旧宅に関する説明案内でした。・・・・・そして振り返って見ると素晴らしい石垣(右下写真)が広がっていることに気づきます、秋帆先生をリスペクトしている小生、時間を超えてこの風景を先生と共有していると思うと「おっ!」と声に出してしまうほどでありました。
さて、まずは旧宅内入口の階段を上がった傍にある説明板案内を紹介いたします。
本当に素晴らしい石垣でした。
案内板説明
高島四郎太夫茂敦は秋帆と号し、家は代々町年寄を務めていました。
秋帆は儒学・書道・絵画などを修め、荻野流砲術を究めた上に蘭学を加え、西洋流砲術を学び、砲術の発達と海防の急務を幕府に進言しました。
天保12年(1841)には」幕命により武蔵国徳丸原で野戦砲・銃隊の打撃と部隊の洋式調練を実演して周囲を驚かせた。
高島家は大村町(現在の万才町)に本宅がありましたが、天保9年(1838)市中の大火により類焼したので、ここ小島郷の「雨声楼」とよばれる別邸に移り住みました。
建物は原爆で大破し解体され、現在は、石垣・土塀・井戸・砲痕石などが残っています。
長崎市教育委員会 国指定史跡 高島 秋帆旧宅(平成14年3月)
案内板・説明板・石垣を見て、更に階段を上がると土塀と旧宅の入り口に至る。
中に入ると石倉や雨声楼址などがすぐに見受けられますが、旧宅内には更に案内板(見取図の現在地)があり、土塀づたいにまずはそこを目指すことに
旧宅内の案内板には高島秋帆につい下記の様に述べられている。
案内板説明
高島四郎太夫茂敦(秋帆)は町年寄高島家の11代当主です。荻野流砲術を父に学び銃砲や砲弾の鋳型を」オランダから輸入し、西洋式砲術を研究しました。
また「天保上書」を幕府に上申し、海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説きました。そして武蔵国徳丸原(現在の東京都板橋区高島平)での西洋式訓練を実施するなど功績を挙げましたが、天保13年(1842)に無実の罪で12年間捕らえられました。
その後は行進の指導にあたり、江戸で没しました。墓も当地にありますが、寺町の高島家墓地(市指定史跡)にも、秋帆と家族の墓碑が門人によって建てられています。
長崎市教育委員会(平成17年3月設置)
高島秋帆旧宅は、秋帆の父 茂紀が別邸として文化3年(1806)に建てたものです。
瓦葺木造2階の建物であり、2階にあった客室から眺める、盛夏の雨垂れの光景にちなんで、秋帆は「雨声楼」と名づけました。
秋帆は天保9年(1838)に大村町(現在の万才町)からこの地に移り住んで、天保13年(1842)に捕われるまでの5年間住みました。
また、説明板の周囲には、もう一つの入口と井戸跡や塀がを見ることができます。
邸内の中心とも言える「雨声楼」、現在はこんな感じ
もう一つの入口?
井戸跡
雨声楼址にて建物を想像しながら眺めみて後ろを振り向くと、そこには「石倉」が建ってまする。この石倉は昨年6月の「週刊 江戸No73」にも紹介され、その頑丈な造りに魅了され、長崎に足を運ぶきっかけになった一つでもあります。
「石倉」の説明は次のとおりである。
構造 ■壁体:石造 ■軸組:木造2階建て ■屋根:桟瓦葺切妻造
高島秋帆の硝煙蔵あるいは倉庫だったといわれています。
高島秋帆旧宅が国史跡に指定された、大正12年(1922)に、すでに建築されてましたが、いつ建築されたのか正確には特定できません。
現存する長崎市内の倉のなかでは石造のものは珍しく、」石造倉庫の貴重な遺構です。
素晴らしい石倉
~砲痕石と砲術練習場跡~
旧宅内の見学を更に進めていくと、雨声楼と石倉の反対側に一段下がった場所があります。最初の入口を入り右手に進むとその案内があり、更に進みと「砲術練習場跡」並びに「砲痕石(右写真)」の案内を見ることができるのです。
この砲痕石のある射的場は、もとは上部も側面も石で囲んだ石室状のものでしたが明治33年(1900)ごろ、当時の所有者がこの石材を使って雪見燈籠を作り、その時に向う正面の石だけを残したのがこの砲痕石といわれています。
「砲痕石」から奥を望むとこんな感じ
出島(史跡 出島和蘭商館跡) ~長崎へ飛ぶ編2~
出島(出島和蘭商館跡)は、高島秋帆が父 茂紀と共に、町年寄として出島に来航するオランダ人を世話する役柄から接触も多く、時の出島商館長スチュルレル(陸軍大佐)などより西洋式軍事技術を学ぶと共に、個人としても砲術の文献だけでなく、銃砲・大砲・砲弾等の武器も大量に輸入して砲術の研究を進め西洋流(高島流)砲術を確立には重要な地です。
出島の中には、そのことを示す資料は見受けられませんでしたが、資料の中に出てくる「高島家」の文字を見かけると、何だか嬉しさが込み上げてきます。その他に砲術として「ブロンズ製12ポンド砲(青銅製大砲)」や海中から引き揚げた味わいのある「鉄製大砲」が展示されていました。
詳しい出島に関する説明は、出島~公式ホームページ~ へ
グラバー園内 「高島流和砲」 ~長崎へ飛ぶ編3~
出島を出て、オランダ坂付近を散策・見学をして、「グラバースカイロード」へ、着いた先にグラバー園第2ゲートがある。入るとすぐに「旧三菱第2ドッグハウス」があり、その左先に「高島流和砲」は飾られています。
大砲横に設置している案内板には、調練図と共に「長崎に生まれた幕末の兵学者、砲術の高島流の祖でもある高島秋帆の指導により、鉄砲鍛冶 野川清造が製造した大砲といわれています。(提供者 製造者子孫の会社名と社長名 長崎市)
なぜグラバー園に?は不明ですが、「奥の細道、都内&近郊編」の川口市で拝見した秋帆レプリカ砲(秋帆指導で作成した大砲)の原型に出会えるとは感動です。
その他、グラバー園には「日本最古のアスファルト道路」や「ハートストーン伝説」など見所がたくさんあります。また、最後に見える長崎のまつりの紹介は再び長崎の旅のお誘いを感じずにはいられません。
グラバー園公式ウェブサイトは……こちら
高島家墓地(市史跡) ~長崎へ飛ぶ編4~
高島秋帆の旧宅から得た情報により、今回の長崎での砲術資料蒐集の〆として、長崎の高島家御墓に向かいました。墓石は寺が列をなす寺町の「晧台寺」の後山墓地にあり、お寺の境内を横切り、墓地の階段をひたすら上へ、5分ぐらい上がった先にあります。開けた場所にあり、長崎の街を一望できる場所でもあります。
市史跡「高島家墓地」の案内板には、【指定日 昭和48年11月5日 「高島家は、代々大村町(現在の万才町)に住む町年寄の家柄にあった。初祖、氏春は天正2年(1574)長崎に移住し、初代茂春が頭人(後に町年寄と改称)となった。中央正面は3代茂卿の墓碑であるが、茂卿は寛文13年(1673)に没しており墓の配列から考えて墓域設置は寛文前後と思われる。当主の墓碑は6代を除いて、初代から11代までがあり、この中には、慶応4年(1868)門人たちが建てた茂敦(秋帆と号した)とその3人の墓碑もある。】と記載され、秋帆を示す文字が刻まれ「贈正四位高島茂敦之墓」並びに「皎月院殿碧水秋帆居士」が確認できます。